空がルビーのように真っ赤に染まっている。ぽとりと墨汁を落としたような黒い雲は、行く宛もなくさ迷い、その下を駆けるのは死した人間の血肉を求める鴉しかいない。 いずれにせよ、俺は死ぬ運命か―――。 オプトニューロンの施された身体は矢張コフィンに乗っていなければ、使い物にならない。ゼネラルリソースの奴らが俺を殺したのは、その所為だ。 エレクトロスフィアとは違い、現実では痛みが伴われる。さっきから口と喉に開いた傷から空気がひゅうひゅうと漏れる度に、激痛が走った。 「………ッ」 声を出そうとすると、血が喉元から溢れて気道を塞ぐ。恐る恐る触ると、ぬるぬるする液体がぽたぽたと滴り落ちていた。 ため息を吐くと、溜まったそれがごぼごぼと音を立てた。酸素を得られず、二酸化炭素を吐き出せない苦しみ。 どうやら死因は失血死から窒息死になりそうだ。霞みがかった脳で、そんなことを考えた。 結局、俺は何のためにこの世の生を受けたのだろう。 人の為、ゼネラルリソースの為。 嗚呼、でも俺が生まれたのは。 この空を、己の為だけに飛ぶ為に生まれたのだ。 あの美しき空よ。俺が解放される唯一の世界だ。 飛ぶことは気分がいい。誰かが麻薬を飲んで、それでラリったような気分に似ているといっていたが、そんなものとは違う。 空に行けば俺は空と一つになれる。同化し、その広さを心ゆくまで愉しみ、そして心から笑い、涙することができる。 俺に残された、たった一つの世界だ。 だけど、それももう消滅する。俺が死ぬ事であの空は、世界は無意味なものになる。 もう少し、あの空の中で飛んでいたかった。いや、違う。 死ぬのなら、空で塵となって、溶けるように死にたかったのだ。 絶え間なく動く思考に意識を逸らすと、俺は目を閉じた。もう直ぐ、死ぬ。心臓の動きが緩慢になってゆくのも、体が冷えていくのも、全て感じる。 さよなら、と俺はごぼごぼと血を溢れさせながら呟いた。もう用は無い。 そして、自分の傷口に指をもぐりこませようとしたとき、別の音が聞こえた。 己の発する湿った音と呼吸音。それだけしかしないこの場に、足音が混じった。 誰かが近づいてくる。視界には入っていないが、耳で分かる。砂が蹴り飛ばされ、ぎしぎしと擦り合わさる音に被る音。 未だ死に切れない身体を恨みつつも、俺は目を開けた。誰かがいる。 「ここにいたのか」 そいつの声はまるで道化師のように含み笑っていた。目の前に黒い影があった。どうやら男のようだが、逆光の所為で表情や顔立ちは分からない。 そいつはずっと見下ろしながら、続けた。 「お前のような人間を殺すとはね…ゼネラルも惜しい事をする」 ゼネラルが俺を殺したのは、単純に俺が不要になっただけだ。奴らが惜しい事をしたとは思えないだろうに。 俺はじっと見つめる。 そいつは唇の端に謎めいた笑みを浮かべながら、不意に言った。 「お前が望むのであればだがね…お前を生かそうと思えば生かす事ができるよ」 面白いことを言う。だが不可能だ。 まず、お前は神ではないし、ただの腐った人間だ。人間が人間を殺すことは出来ても、作る事も生き返らせる事も出来ない。 そして俺は神を信じない。神如きがいようならば、今頃俺はこうして地に伏せることはなかったはずなのだ。 だから俺は諦めろ、と血で地面にそう書いた。 するとそいつは可笑しそうに笑った。何が可笑しい、と俺が顔を顰めていると、一頻り笑ってからそいつは言った。 「私はお前が望む物を知っている」 お前のような愚か者が知っているとでも言うか。俺は少しだけそいつのことを馬鹿だと思った。 しかしそいつは、俺の思考などお見通しのようで、相も変わらず笑ったまま言う。 「あの、美しい空だ」 あぁ、そうだ。よく分かった。だが、どうして知っている? 「私は、お前を常に見てきたからな」 俺の思うことを次々に当てていくそれは、宛らエスパーのようだ。可笑しくなって笑うが、次の瞬間、息を止める。 血塗れになった髪をぐい、と掴んで、囁いてきたからだ。 「お前が望んだ空。そこに再び還りたいだろう?」 甘い毒を忍ばせてくる。 お前のような性根の腐った馬鹿に何が出来ると思う。 できる事といえば、この荒廃しきった世界を更に腐らせる事だけだろう。 だけど、俺は世界が腐敗したとしてもあの清冽なる、孤高の空に行きかった。還りたかったのだ。 血に塗れた指が地面で文字を形作ってゆく。 ――俺が 空に行きたいのは 事実だ。だが お前はその見返りに 何を求める。 「お前が、私の実験に協力してくれることだけさ」 ほら、結局はこうくるのだ。 だけど、お前が俺を空へと還す事が出来るなら、やってみろ。 残された意識で俺は嘲るような、侮蔑に満ちた表情で哂った。 なぁ、―――。 あの日、俺は肉体をなくし、そして容れ物を手に入れた。 サイモン。それが、俺という人間をAIとして、作り直した人間の名前だ。 そして俺は、あれからネモと言う名を貰った。 だけど、そのことを俺は忘れていた。