体に掛かるGによって全身の骨が軋み、血管の中を血が移動するのを感じる。こんなとこで気絶したら洒落にもならねぇ、と回らない頭で考える。 「う…グ…ぅッ…!!」  かつての愛機F-15Cは軌道エレベータ内部での無茶のせいで喪われており、後に乗機となったのが、このF-22……通称ラプター。配備されてから長い年月が経っているが、未だ現役戦闘機の中でもトップクラスの性能を誇り、最強の呼び声も高い。しかも、我が隊の女王様……エイブリルの整備によって限界以上の性能を引き出されている。  しかし、そんな機体を駆っていながら、目の前の「アレ」に全く追いつけない。いや、正確には追いつけそうで追いつけない状況が長時間続いていて……つまり、完全に遊ばれていた。当然、機体の性能差はあるだろう。しかし、掛かる負荷は同じはずなのに……同じ軌道を描こうとするだけで、こちらの身体が悲鳴を上げ、思考が鈍っていく。 「……ッ!?」  雲を抜ける、その瞬間にソイツは消えた……いや、違う。急激な血圧の変化によって視界が狭まっていたせいで、空と雲との境界でクルビットマニューバ(垂直方向への宙返り機動)を行った相手を完全に見失ってしまったのだ。  ゾクリ、と気配を感じて視界を真上に向けると、相手のコックピットから搭乗者がこちらを眺めているのが判る。尾翼同士が擦れるんじゃないかという距離を、相手が回転しながらすれ違っていく。 「うっそだろ、オイ…ッ…!!」  この大馬鹿野郎、ぶつけやがったら女王様に殺されるぞ……!!  相手がピタリとこちらの後方に着いたその瞬間、反射的に体が動く。急制動、急旋回、フレア展張。しかし、これらの回避行動は無駄に終わった。いつまでたっても、相手がこちらをしっかりと追尾し続けているのが解る。背後に感じるその気配は、まるで幽霊<ゴースト>のソレだ。  くそったれ。口が乾いてしまい、声に出して毒づくことも出来ない。ヘルメットに内蔵されたヘッドホンから被撃墜を知らせるアラームが鳴り響く。あの野郎、こちらをロックオンすることなく、機銃で堕としやがった……。この野郎、演習でミサイルをケチってんじゃねぇよ。 『このくらいで良いだろう……カウント、良いテストになった。礼を言う』  空中戦の相手……トリガーの声は全く乱れていない。こっちはぜぇはぁ言いながら、ようやく全身の緊張を解く。そりゃあ、良いテストだったろうさ。こちらは数えきれないほどの被撃墜……に対して、ヤツは一度もあの忌々しいアラームを聞いていないのだから。 「……カウント了解、これより帰投する」  元々、常人と比べるのも憚れるレベルの戦闘機乗りだったが……X-02Sとかいう最新鋭の怪物に乗ることで、より一層、手を付けられなくなっている。しかもそれがスクラップ・クィーン印ときたらもう……俺にどうしろっていうんだよ。  いつぞやの対ミハイ戦で感じたのは恐怖だったが、しかし今回感じたのは諦観だ。勝つとか、逃げ切るとかというイメージすら沸かない。そこまでの強さを得て、トリガーのヤツ、一体何と闘うつもりなんだ? 神でも相手にするつもりか? ……いや、それでも俺は神の方に同情するね。 「……やる気無くすぜ」  ◇ 「と言いながら、それを一番楽しそうに話すんだよねぇ……アイツ」  基地内の食堂スペース。その中心で盛り上がる一団を眺めながら、フーシェンと呼ばれる女性パイロットが溜息をついた。彼女もトリガー率いるストライダー隊の一員だ。他の隊員や整備員たちも、ほとんど全員カウントの語り口に耳を傾けていて、併設された即席のバーカウンターには、私と彼女だけが座っていた。  ちなみに、隊内で一番の酒豪である彼女が傾けているグラスの中身はウォッカだった。私も弱い方ではないつもりだったが、この女に付き合っていたら肝臓がいくつあっても足りない。実際、見目麗しいフーシェンに下心を持った別部隊の大柄な男性隊員が真っ向勝負を挑んだ結果、急性アルコール中毒で医務室に運び込まれたのは、隊内では有名な話のひとつだった。……以降、彼女に飲み比べ勝負を挑んだ男は居ない。 「へぇ……」  頷くだけで、カウントを眺めるアンタも楽しそうだけどね、という心の声を表には出さない。特大の地雷を踏んでこの酒豪女に絡まれるのが面倒だということもあるけれど、私自身だって他人にどうこう言える状況じゃないからだ。どうやらこのフーシェン、カウントを憎からず想っているようだった。  とある人物から聞いた話では、カウントが長距離打撃群に参加した当初は彼に突っかかっていったそうだが……まぁ、元犯罪者部隊出身となれば仕方ないかもしれないが……カウントの所属していた部隊の隊長が落とされて、彼がその跡を継いで以降、二人の関係にも変化が見られるようになった、らしい。……あくまで伝聞だが。 「我らが隊長殿の武勇伝を語りたくなる気持ちは、解るがな」  そう言って現れたのは、イェーガー。ストライダー隊の三番機。こいつが件の伝聞の主だ。どの部隊にもひとりはいるような、所謂まとめ役。生来のバランス感覚でソレを担っている彼が、この凹凸だらけの部隊を上手く慣らしているとも言えた。真面目な話、無口なトリガーには出来ない芸当だろう。……いや、ヤツの場合、その圧倒的な実力で有無を言わせないかもしれない。例え、本人が意図していなくてもだ。 「貴方は子供に話して聞かせているんだっけ?」 「ああ。妻はもう、こういう話をあまり聞いてくれないんでね……必然的に息子が相手になるんだ。実際、彼の話のウケが良いよ」  そう言って笑う彼も、トリガーに心酔している人間の一人だ。空での英雄譚を幼い息子に聞かせるのが何よりの楽しみらしい。そういった家族がいるというのは、素直に羨ましくもある。 「カウントのヤツじゃないけれど……確かに、隊長は凄い。今じゃオーシアでも指折りのエースパイロットだ。一部じゃ、伝説のメビウスワンを超えたんじゃないかってね」  メビウスワン。過去の戦争で活躍した戦闘機乗りで、戦局を覆すエースの代名詞みたいな人物だ。個人が一個師団と同等と評されたというのだから、それはもはや寓話の世界だ。 「メビウスワンか……今もどこかの空軍に所属しているだなんて噂もあるけれど、実際のところどうなんだろうな」 「もしやりあったら、どっちが勝つんだろうね」  戦争を終わらせた偉大なるエースパイロットとして名を馳せるメビウスワン。トリガーは、そんな過去の英雄とも並び評されるようになっていた。そして、軍内部でも彼の扱いが目に見えて変わってきていた。この短期間で佐官へと昇進したことも含めて、上層部ではトリガーを祭り上げようとしている様子が見て取れた。  それについてトリガーに尋ねたこともあるが、彼自身は特に何とも感じていないらしい。むしろ、これを機に部隊の戦力を底上げしようとしている節が見て取れた。今でも各地で小競り合いはあるし、通信網の全滅でネットワークが遮断されたままの地域では、スタンドアロン化したUAVが現れることもあるから、軍縮ムードとは程遠い状況だ。  部隊の編成も、トリガーのX-02Sの他は全機をF-22へと変化している。今のトリガーと編隊を組む以上、並の機体ではそれも覚束ないのだから、それ自体は必然だ。しかし、高価な機体がこうも易々と配備されている状況には違和感も覚える。 「アンタらは、どう思う?」 「どうって……あれだけ近くで彼の活躍を見ていたら、祭り上げたくなる気持ちも解るさ」 「補充機体についても、戦中の特別臨時予算で、オーシア軍が資金を大幅に増強したからな……喪われた海軍戦力の補填が最優先だろうが、被害を受けた工廠の都合もある。その結果、我々空軍もおこぼれに預かれるというワケだろう」  私の質問に対して、二人はそれぞれの見解を示す。更に話は続いた。 「ああ、そういえば……戦力再編に企業体が絡んでくるかもしれないって話もあるね。ホラ、例のなんとかって企業」 「……ゼネラルリソース社か。確かに、喪われた工廠の一部機能を彼らが引き受けてくれたのなら、戦力の回復も早いだろうがな」  途中で、新しい酒瓶に手を伸ばしたフーシェン。手にしていたグラスは既に空だ。 「それにしたってF-22がまるまる小隊分届いたのは、凄いけどね。ご丁寧に予備機まであるし……大盤振る舞いだ。オーシア軍ではエースにだけ配備されるのが通例なのにね」  フーシェンは、バーカウンターの棚にあるものの中でもアルコール濃度の高いものから順に攻めているように見えた。しかし、その顔色は全く変わらない。……この女、いつか航空機燃料を飲み干しかねないな。 「余剰機体ってワケでも無いだろうしなぁ。……ああ、でも変な噂話があったな。これも、よくあるゴシップの類なんだろうが……いや、しかし、よく考えるなと思ったよ」  イェーガーは、真顔で続けた。 「トリガーは、故ハーリング元大統領の隠し子って話だ」  それを聞いたフーシェンは一瞬固まったあとにケタケタと笑い出した。それを見たイェーガーもしてやったり、という顔でニヤリとしていたが……唯一人、私だけは笑えなかった。二人の向こう側……賑やかな食堂に入ってきたトリガーの姿が、目に入る。  私は気付いた。これは、数多くのデコイに紛れた本物だ、と。